2003年度、FIA(国際自動車連盟)F1世界選手権で、KLミナルディ・アジアテック・チームから、マーク・ウェバーが走るという発表があった。それはニューサウスウェールズ出身で25歳だったウェバーの苦悩した6年間の末に迎えた頂点への第一歩だった。オーストラリア人F1レーサーであるウェバーは、メルボルンのアルバート・パーク・サーキットで地元観衆の目の前でデビューを果たす。F1で走るオーストラリア人は、94年のデビット・ブラバム以来のことだった。
また、メルボルンは1996年にウェバーがフォーミュラ・ブラバム(旧・ホールデン)のレースで勝利した所でもある。
1995年はカートレースおよびオーストラリア・フォーミュラ・フォード・チャンピオンシップに参戦。同年のイギリス、ブランズハッチでのフォーミュラ・フォード・フェスティバルで3位になり、印象的な国際デビューを飾った。この活躍が1996年のブリティッシュ・チャンピオンシップで、あのアイルトン・セナやエディ・アーバインを発掘したことでも有名なヴァン・ディーメン・フォーミュラ・フォード・チームとの契約に結びつく。そして、その年の終わりにウェバーがオーストラリアを離れた時、彼はちょうど18歳になったばかりだった。
1996年、ウェバーはフォーミュラ・フォード・フェスティバルで総合優勝を飾る。そのシリーズは、ジョニー・ハーバートやエディ・アーバインなど、過去の勝者リストに印象的な顔ぶれが並ぶシリーズだ。
ブリティッシュ・フォーミュラ・フォードで成功を収めていたものの、資金調達には苦労し、資金が底に尽いたシーズン途中でレースを辞めなければならないところだったが、故郷の友人や前ワラビー・ラグビー・ユニオン・レジェンドのデビッド・キャンピージー選手などが援助、それにより以降、ウェバーは見事な戦績を残す。
1997年シリーズは4位でフィニッシュ。同郷のアラン・ドッキングが運営するF3のチームをこの年に卒業した。やがて、ブリティッシュ・シリーズと国際F3イベントでの強いパフォーマンスがメルセデスのボス、ノルベルト・ハウグの眼を引き、ウェバーにメルセデスAMG スポーツカー・チームのテストを受けるよう依頼することになる。
そのメルセデスでのテストは大成功の内に終了し、ウェバーは98年のFIA GTチャンピオンシップを戦うため、チームと契約。パートナーは、元F1ドライバーのベルント・シュナイダーだった。メルセデスの指導の下、ウェバーの成長は著しく、20歳になる頃までメジャーなレース環境で、夢中で働いていた。
1998年は、大きなテストプログラムの仕事と、米国、日本およびヨーロッパで10戦のチャンピオンシップを経験。ウェバーとシュナイダーのコンビは5度の優勝を飾った。しかし、タイトルはクラウス・ルードヴィッヒとリカルド・ゾンタに奪われてしまう。
1999年、ウェバーは彼自身のマシンをプロモートすることになったが、彼のスポーツカーへの情熱はル・マン24時間耐久レースでの2つの劇的な高速事故により、あっけなく終わることとなった。メルセデス・マシンのデザインの明白な空力的欠点が、ウェバーと同じく、チームメイトのピーター・ダンレックのマシンを宙返りさせ、メルセデスのスポーツカー・キャンペーンの縮小とレース自粛を招いた。1999年の補足として、ウェバーは次のシーズン、再び、シングルシーターに復活する決心を固めたことを発表。F1チームのボス、エディ・ジョーダンによって紹介された、ポール・ストダート・ニュー・ヨーロッパ・フォーミュラ・レーシング・チームで国際F3000を走ることになる。
2000年、ウェバーのパーソナル・スポンサーのイエローページとフォスターで連盟されたチームでFIA国際F3000チャンピオンシップに参戦。シルバーストーンシリーズのチャンピオンシップ、2ラウンドでまったく予想されていなかった圧倒的リードをつけ、勝利と共に新記録をEFRチームにもたらした。結局、ウェバーはドライバーズチャンピオンシップをブルーノ・ジャンクイラとニコラス・ミナシアンに次ぐ総合3位で終えている。
ウェバーの戦績は、ベネトン・プレイライフF1チームの興味を煽り、2000年9月には、エストリル(ポルトガル)で行われた3日間のテストに参加した。これが、2001年度シーズンのベネトンとの長期契約へ導き、F3000、スーパー・ノバ・レーシングに参戦。同じく、ベネトン・ルノーF1チームのテスト・ドライバーとなる。2001年、イモラ、モナコ、そして、マニクールで勝利し、F3000シリーズを総合2位で終了。レースの間にベネトン・ルノーF1チームのため、広範囲でテストを行い、それが還元されて、シーズンの終わりには、チームの性能は飛躍的に上昇した。
F1への長期介在を既に決定し、ミナルディに所属。デビュー戦は、メルボルンで行われ、ウェバーは母国のファンの前で5位、2ポイントを獲得した。そのファン達の熱狂、一体感、この若いオーストラリア人、ウェバーにとって忘れられないものとなっただろう。
2002年は残念ながら、その後ポイントなしで終了するも、モナコなどで素晴らしいパフォーマンスを披露。決して目立たなかったわけではなく、やはりジャガー・レーシング・チームのボスの目にとまった。間もなくジャガー・チームと正式契約し、パートナーをアントニオ・ピッツォニアとする。
ジャガーで迎えた2003年は素晴らしいものだった。チームが獲得した18ポイントの内、17ポイントはウェバーの得点からという成績で、チームも関係者も驚かせた。その才能はトップチームからも声がかかるほど。
2004年もジャガーに在籍したウェバーにとっては、残念ながら良い年とは言えなかった。シーズン半ばでジャガーはチームを売却することを発表し、ジャガーのR5も期待していたほど大きなステップアップには至らなかったのだ。しかし、ウェバーは堅実な走りを見せ、特に予選では素晴らしい走りを見せる。マレーシアGP ではミハエル・シューマッハの隣でフロントローに並ぶなどしたが、スピンでリタイアすることも多かった。ウェバーは4戦で合計7ポイントを稼いで2004 年を終えている。
フランク・ウィリアムズ代表が、かねてから目をかけていたウェバーのウィリアムズ移籍に驚く者は少なかった。そんなウェバーの2005年は期待外れに終わる。予選では力を発揮するものの、レースとなると足をすくわれ、ポイントを逃す始末。チームメイトのニック・ハイドフェルドの方が安定していたと言えるだろう。しかし、モナコGPでは自身初の表彰台を獲得するなど、ドライバーズチャンピオンシップを10位で終えた。
新星ニコ・ロズベルグを新チームメイトに迎え、2006年もウィリアムズから参戦したウェバー。シーズンを通して、おおむね優勢だったウェバーだが、競争力に欠けたウィリアムズ・コスワースのパッケージに、フラストレーションのたまる1年となったようだ。チームはがんばり続けたものの、シーズン中盤、ウェバーは2007年からレッドブル・レーシングに移籍すると発表。最終的に、2006年シーズンを14位で終えた。
レッドブルでデビッド・クルサードとコンビを組んだウェバーは、ニュルブルクリンクで3位表彰台に上る。しかしながら、RB3の信頼性は乏しく、レースの度にハイドロリック系のトラブルに見舞われてしまった。合計10ポイントを獲得してドライバーズ選手権を12位で終えたウェバーは、2008年もレッドブルにとどまり、レースに挑む。