B・A・Rは1998年にティレルからチームを引き継ぐ形でスタートした。70年代初期に、ティレルはいまや伝説となったケン・ティレルのチームとしてF1界で栄光の日々を勝ち取ったチームだった。 ティレル自身は、1950年代から58年までドライバーとして、レースで人々を魅了し続けていた。しかし 彼の興味は走ることからチーム運営に移り、60年ティレル・レーシング・チームを設立。 ティレル自身の技術能力に加え、若かりしジャッキー・スチュワートを発掘したことから、多くの人間がいずれトップにたどり着くチームに成長するだろうと予想していた。
ケン・ティレルは、チームのレギュラー・ドライバーであったトミー・メイヤーがタスマニアの事故によって落命した。ジャッキー・スチュワートにF3へのテストの機会を与えるという条件で、すばやくスチュワートと契約。スチュワートがブルース・マクラーレンよりも速い結果を出し、スチュワートはF2からのスタートではあったが、68年からはすぐにF1に参戦した。
当時ティレルは、フォード・コスワースDFVエンジンとマトラのシャシーでチーム運営していた。 ジャッキー・スチュワートは、シーズン最終戦を除く全てで勝利をあげた強さだった。それは翌年への単なる序章に過ぎなかった。6レースに勝ちドライバーズ・タイトルとチームのコンストラクターズ・タイトルを獲得した。スチュワートは、もう誰にも追いつけない速さだった。
しかし翌70年、マトラがフォードV8に合ったマシンを造ることを拒否し、レギュレーションが変わったこともあり、結局スチュワートは勝ち目のないマーチのマシンでシーズンを幕開けすることになった。この時点でケン・ティレルは、後にティレル最初のマシン・デザイナー、ディレック・ガードナーを雇いティレル001が完成させるが、もはや開幕の時点で、スチュワートは優勝争いから脱落していた。
71年、ジャッキー・スチュワートと新しいチームメイトであるフランソワ・セヴェールと共にサーキットを激走。 スチュワートは自身2度目のタイトルを獲得し、セヴェールも3位となった。 翌シーズン、スチュワートは潰瘍を患い、シーズンを通して苦しい戦いを強いられた。しかし73年には回復して、再びワールド・チャンピオンの王座に返り咲く。残念ながらコンストラクターズ・タイトルはロータスに奪われた。
翌74年度、ワトキンズ・グレンでの最終レース後、スチュワートが引退を決意したという理由から、シーズン開始からケン・ティレルに対する風当たりが強くなった。モンツァで彼自身の経歴の中でもベストと言えるレース展開を見せ、ドライバーズ・タイトル獲得で優秀の美を飾った。だが、チームメイトであり友人のフランソワ・セヴェールが練習中に事故死。スチュワートは引退時には全100レースに出場になるはずだったが、不幸が重なってチームは最終戦への出場を取り消した。セヴゥールの死と共にチームの成功もまた消えてしまったかのように見えた。
ティレルは、通常の4輪のホイールよりも空力的により有利となる6輪を使用することで有名になったP34を開発。76年には、アンデルストープでジョディ・シェクターとパトリック・ドゥパイエが1位、2位を独占。 77年度シーズン、ロニー・ピーターソンがジョディ・シェクターと替わってチームに参加するが、運悪くその頃にはP34はもはや時代遅れになっていた。
78年、パトリック・ドゥパイエがモナコでチームに再び勝利をもたらす。しかし、これはミケーレ・アルボレートが82年、ラスベガスで勝つまでの長い間、チームにとって最後の勝利となってしまった。
80年から90年代初頭まで、チームには日の当たらない時期が続いた。ジャン・アレジによる驚くべきレース展開によって、ハーベイ・ポストレスウェイトの018/019が一躍脚光を浴びることとなった。 しかし、その後の調整はうまくいかず、それから94年までケン・ティレルの瞳に輝きが戻ることはなかった。
94年度シーズン、片山右京と組んだヤマハとの共同成果が、チームに久しぶりの快挙6位をもたらした。翌95年には、ミカ・サロは2度の5位を獲得するも、ドライバーズ・ランキングで14位と浮かばなかった。一方の片山右京はノー・ポイントでシーズンを終えた。
96年、97年も同じく、チームは旧フォード・エンジンを積んでいたため苦しい時期が続いた。残留したサロとヨス・フェルスタッペンが雨のコンディションの中でモナコGPを戦うも、結局サロが5位でフィニッシュするので精一杯だった。
97年シーズンの終わりにケン・ティレルは、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(現、B・A・R)にチームを売却。 チームの再生が期待され、初期のような栄光の日々が戻ってくることが望まれた。 98年ティレルは最終戦まで戦い、12月、公式にチーム名をB・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)と変更した。 その後、悲劇にもケン・ティレルはドライバーに関わる論争でこじれ、結果的にチームを退くこととなった。
新星B・A・Rとなった最初の年は、ジャック・ビルヌーブとリカルド・ゾンタがドライバーに決まり、またビルヌーブのマネージャー、クレイグ・ポロックがチームを運営することとなった。しかし、彼らは暗雲のスタートを切ることに。2台に違ったカラーリングを施したマシンを送り出すも認められず、次に1台のマシンを真ん中でファスナー柄を挟んで、両側に異なったペインティングをした。2重共同スポンサーをアピールできるマシンを造り上げるが、これも認められなかった。結局B・A・R側がFIA(国際自動車連盟)に譲歩する形で問題は解決された。 結果的に最初の年は、苦い経験を積むことになり、1ポイントも上げられずに終わった。マシンの信頼性がチームの課題だった。2000年度はチームに関してあらゆる噂が飛びかった。99年の結果に伴いチームを解雇されたマネージャー、ポロックの発言からビルヌーブもチームを去らなければならない危機を迎えていた。結果的にそれは現実にはならなかったものの、チーム政策上の混乱は長く続くことになった。
ホンダとの提携が始まった最初の年はうまく機能し、ビルヌーブは何レースかをすばらしいパフォーマンスで走り抜けた。ゾンタもシーズン後半には、比較的いい位置につけるレースもあった。B・A・Rは、新しい二人のドライバーが総合5位以上の結果を残すことを期待し、2001年のビルヌーブのパートナーとしてオリビエ・パニスと契約を結んだ。結果的にこの期待は達成されず、2001年はホンダのエンジンを駆使したライバルのジョーダンに敗れ、総合5位でシーズンを終了。
ビルヌーブは、2002年度シーズンにおけるチームの総合的な変更と、マシンの劇的な改良について全く賛同できないとコメントしていた。しかも、新しいマシンの発表の前夜、突然、チーム・ボスであるポロックが、ビルヌーブの将来に対して疑問を感じたとし、2002年はB・A・Rで過ごす最後のシーズンとなった。 最終的にデビッド・リチャーズが、チームに栄光を取り戻すため、ポロックと入れ替わる形でチーム・ボスに就任した。
ジャックはここでキャリア最大のミスを犯したと言える。彼は2003年もB・A・Rのステアリングを握ってグリッドに着いた。チームメイトにはウィリアムズやルノーへの在籍経験のあるジェンソン・バトンである。ジャックは一時、バトンに挑発的な態度を取り、彼の器量を試していた。結果、バトンはジャックを凌ぐ走りを見せつけるようにまでなった。ジャックは最終戦・日本GPを待たずして、佐藤琢磨に自らのシートを譲った。
多少時間はかかったが、2004年はB・A・R Hondaにとって飛躍の年となった。コンストラクターズ5位から一気にジャンプアップし、チャンピオン争いを繰り広げるトップチームの仲間入りを果たした。2004年は119ポイントもの大量得点を挙げ、コンストラクターズ・チャンピオンシップを2位で終えた。ジェンソン・バトンの2位表彰台が4回、また佐藤琢磨はインディアナポリスで初の表彰台をつかんだ。トータルでは11回の表彰台フィニッシュと、24回のポイント圏内フィニッシュを果たした。
2004年に大躍進を果たしたB・A・R Hondaは2005年、初優勝達成に自信をみなぎらせていた。前年に起きたウィリアムズとジェンソン・バトンの契約問題も影響し、チーム代表のデビッド・リチャーズが離脱したが、代わってニック・フライが代表に就任、バトンの引き留めにも成功した。
こうしたマネージメント面とは裏腹に、チームは開幕3戦を過ぎても、バトンと佐藤琢磨がノーポイントと不振を極めた。第4戦サン-マリノGPではこれに追い討ちをかけるように、マシンの最低重量が規定を下回っていると判断され、失格処分に。その後はさらに2戦連続出場停止と苦境に立たされた。
チームはシーズン中盤になってもポイントを獲得できず、苦戦を強いられたが、その一方ではHondaがチームの株式を45%取得したことを発表。さらにシーズン末には100%の株式をHondaが所有するに至っている。また、バトンがフランスGPでシーズン初ポイントを挙げてからは最終戦まで全戦でポイントを獲得。一方の琢磨は最後まで波に乗れず、苦しいシーズンを送った。チームも結局、コンストラクターズ・ランキング6位に低迷している。
バトンに至っては2005年も再びウィリアムズとの契約問題が発生したが、Honda残留を熱望するバトンの願いが叶う形で2006年の残留が決定。パートナーを務めた琢磨は新たにフェラーリからルーベンス・バリチェロを迎えたチームを去り、新チームのSUPER AGURIへと移籍した。
周囲の状況など運を味方につけたバトンがハンガリーGPで見事な初優勝を遂げ、チームに悲願の初勝利をもたらしたものの、テクニカルディレクターのジェフ・ウィリスが離脱するなど、2006年もHonda Racing F1にとって紆余曲折のシーズンとなっている。
バリチェロはHonda Racing F1で過ごす初シーズン前半は、ますます進歩を遂げるトラクションコントロールなど、RA106が彼のドライビングスタイルに合わず、苦戦を強いられる形となった。バトンは新チームメイトに起こったような問題もなく、シーズン後半戦を楽しんだ。
開幕戦から12レースで21ポイント獲得というのは決して褒められた成績ではないが、バトンは最後の6戦で35ポイントを獲得し、最多得点を稼いだドライバーとなった。一方のバリチェロはシーズン全体で30ポイントをマーク、Honda Racing F1は合計86ポイントでコンストラクターズ選手権を4位で終えている。
2007年に向けてチーム内の大きな変動はなく、チームはバトンが2006年シーズン終盤に見せた衣装的な走りを新シーズンにも期待していることだろう。また、チームのコンストラクターズ選手権でトップ3にいるという目標を達成するためには、バリチェロはさらなる向上が必要となってくる。