1986年、ルチアーノ・ベネトンはトールマン・チームを買い取り、ベネトンとしてマシンを走らせ始める。 マシンは当初、BMWのターボ・エンジンで走っており、ドライバーの能力以上の巨大なパワーを持った代物だった。テオ・ファビは、オーストリアGPとイタリアGPでポール・ポジションを奪った。その後チームは、ゲルハルト・ベルガーによって、メキシコGPで初勝利を勝ち取ることとなった。
88年、チームは、コンストラクターズで総合3位。 89年はジョニー・ハーバートとアレッサンドロ・ナニーニという素晴らしいドライバー陣を揃えた。 しかし同じ年、チームはフラビオ・ブリアトーレによって買い取られ、デビュー前に起こった事故から完全に回復していなかったハーバートはすぐに解雇されてしまった。同時に、フラビオ・ブリアトーレは、チーム・マネージャー、ピーター・コリンズも解雇。その年のチーム唯一の好成績は、アイルトン・セナが失格となった日本GPで、アレッサンドロ・ナニーニが勝利したレースだけだった。
翌90年は、ネルソン・ピケと契約。彼のキャリアの中でも翳りの見えてきた時期であったが、素晴らしいドライビングを展開した。そしてセナとプロストが接触事故を起こした日本GPでのレースで勝利した。
91年はチームの転機となった。当時ジョーダン在籍のミハエル・シューマッハが、デビューGP予選7位で人々を驚かせ、ベネトンはすぐにピケのパートナーとしてシューマッハと契約することに全力をあげた。 シューマッハはF1経験の浅いスタート時からすでにその才能を開花させ、チームメイトの年輩であり、過去にワールドチャンピオンを経験したピケよりも速く、頻繁にベネトン・チームにポイントをもたらすようになった。ブリアトーレはイギリスのコッツウォールドに新しい技術施設を開き、ベネトンは未来のチャンピオンを自分達のチームから送り出すことになるであろうことを悟っていた。
92年、ウィリアムズの圧倒的優勢状態が続き、シューマッハにとってタイトルはまだ遠い存在だった。しかしデビューから丁度一年後、シューマッハはスパ・フランコルシャン・サーキットで初勝利をおさめた。
93年、セミ・オートマチック・ギアボックスとアクティブ・サスペンション時代の到来により、チームは一気に飛躍した。モナコGPではシューマッハが若さと勢いでしリードするも、この年のウィリアムズの圧倒的支配を止めるにはいたらなかった。
トラクション・コントロールが禁止された翌94年、シューマッハが最初の2戦から勝利。その年アイルトン・セナがイモラで悲劇の死を遂げた時、シューマッハにはF1界を引っ張る次のドライバーとして期待が向けられた。しかし、94年はシーズンを通して、チームにとっては落胆の多い年だったと言えるだろう。 チームの業績に対し雲行きが怪しくなり、シルバーストーンでレギュレーション違反を示す黒旗を無視したとして、シューマッハは2レースの出場停止を受けた。 さらにベルギーGPで技術的な問題からの失格などが続いた。 そしてシューマッハは最終戦でタイトルを争うヒルと接触してしまった。論議の末ウィリアムズのデーモン・ヒルにたった1ポイント差とは言え勝利し、初のドライバーズ・タイトルを勝ち取った。
95年、ジョニー・ハーバートがチームと再契約し、2勝を挙げる。シューマッハは昨シーズンの結果に甘んじることなく、シーズン通し9レースに勝利、2度目のドライバーズ・タイトルを獲得した。 二人の活躍でベネトンにこれまでに最初で最後のコンストラクターズ・タイトルをもたらした。
翌96年から、シューマッハはフェラーリに、ハーバートはザウバーにそれぞれ移籍。 ベネトンはウィリアムズの支配の前に戦える状態ではなかった。 二人に代わり、ジャン・アレジとゲルハルト・ベルガーの両ドライバーがチームに参加するも、勝利を掴むまでには至らなかった。フラビオ・ブリアトーレはシーズン最終戦で、アレジがクラッシュを起こしたことに激怒した。そしてベネトンはフェラーリにチャンピオンシップ2位の座を奪われてしまった。アレジとブリアトーレの災難はそこで終わったわけではなく、97年のオーストラリアでの開幕戦では、ピットでの作業に失敗し、レース途中で燃料切れを起こしてしまった。
98年、再び両ドライバーを入れ替え、チームは新しい風を入れた。 ベルガーは引退し、ジャン・アレジはザウバーに移籍した。 それにより、チームは若いジャンカルロ・フィジケラとアレクサンダー・ヴルツを起用。 またブリアトーレ自身もラリーとツーリング・カーのボスであるデビッド・リチャーズと入れ換えられた。新しいシーズンは最初からアレクサンダー・ヴルツの輝かしいドライビングとフィジケラのカナダでの素晴らしい成績2位を受け、チームの未来は保証されたように見えた。
一転し99年度シーズン、再び災難に見舞われる。 彼らもウィリアムズ同様に、スーパーテック・エンジンに切り換えたことで、常に問題が生ずる結果となり、コンストラクターズ総合6位で終わってしまった。
2000年も大幅な変化は見られなかったが、ブリアトーレがチームに復帰。 彼らはBARを上回り、総合4位を飾る。 そのシーズンのハイライトはジャンカルロ・フィジケラがカナダGPで3位になったことだった。
2001年、アレクサンダー・ヴルツはウィリアムズからのレンタル移籍となるジェンソン・バトンと入れ換わり、一方でヴルツは、マクラーレンのサード・ドライバーになった。2001年、散々たるチーム成績で、ベネトン・チームとしてはでの最終年度となった。
2002年度は、完全にルノーとなってカムバックした。 引き続きジェンソン・バトンと、新しいパートナーとして、ジョーダンからやってきたヤルノ・トゥルーリの二人となった。 所々でシーズン中、いい活躍を見せ、コンストラクターズ総合4位で終了した。
しかし、チーム・ボスであるフラビオ・ブリアトーレは、2003年度、バトンとスペインの若きドライバー、フェルナンド・アロンソとの入れ換えを決定した。そしてジョーダンやミナルディと共に、金曜のプライベート・テスト・オプションを受け入れる決断も行なった。ライバルたちと違う切り口から、勢力図の塗り替えが果たせると期待を込めた決断であった。
そしてそれは現実となった!ランキングは4位と、去年とは変わらない。だが、トップ3位チームとのポイント差はもうすぐのところまで来ている。ハンガリーGPではアロンソが初勝利をあげた。ブリアトーレは2003年にアロンソを起用したことに、改めて確信を持ったことだろう。
2004年、ルノーはコンストラクターズ・ランキングで3位に入り、シーズン前の目標を達成した。モナコGPではトップでチェッカーフラッグを受けたヤルノ・トゥルーリがチームに1勝をもたらし、そのほかに5度表彰台に上った。
いつも勝利を狙えるとまではいかなかったが、信頼性の高さに恵まれ、フェルナンド・アロンソは優れたスタートシステムを生かしてレースでポジションをアップさせていた。
2005年はフラビオ・ブリアトーレの計画がすべて上手く運んだシーズンだった。力のあるシャシーR25を、ジャンカルロ・フィジケラとフェルナンド・アロンソといった実力派ドライバーが操った結果、アロンソがライバルのキミ・ライコネンを抑えて、史上最年少のチャンピオンに君臨。チームも最終戦中国GPで、し烈なタイトル争いを繰り広げてきたマクラーレンを見事に破り、コンストラクターズ・チャンピオンシップを勝ち取った。
こうして念願のタイトルを手中に収め、2006年もカギとなる人物がチームに残ったルノーは、再びチャンピオンシップを席巻すべくシーズンをスタートさせた。
開幕戦から3連勝を飾り、R26は見事なペースを披露。レギュレーション改訂により、2.4リッターV8エンジンに移行したルノーは、やや遅くなったように思われたものの、シーズン中盤にはタイトル間違いなしとの見方が強まった。しかし、賛否両論を呼んだ規約の再評価によって、ルノーは2005年末に初導入したマスダンパー・システムを失ったのだ。そして、その規約変更と相まって強力なライバル、フェラーリが躍進を遂げ、タイトル争いは最後の最後までもつれることとなった。
アロンソのシーズン前半戦は9戦6勝と素晴らしい結果だったが、その後は不運やトラブルによって優勝から遠ざかっている。シーズン最後から2戦目にあたる日本GPに先だって、アロンソはチャンピオンシップでミハエル・シューマッハに並ばれたが、フェラーリV8エンジンが鈴鹿で悲鳴を上げたことにより、負担が軽減されたアロンソが優勝、最終戦ブラジルGPでアロンソがドライバーズタイトルを、ルノーがコンストラクターズタイトルを獲得した。
2007年、2連覇を達成したアロンソはルノーからマクラーレンに移籍。グランプリウイナー常連とは言えないフィジケラと、F1フル参戦初年度でタイトル争いに絡める可能性はありそうもないルーキーのヘイッキ・コバライネンのコンビで挑む。テストドライバーには、F1に昇格したネルソン・ピケJr.と長年トヨタのテストドライバーを務めてきたリカルド・ゾンタが就任。アロンソと共に多くの成功を成し遂げたルノーにとって、2007年シーズンは再建の年となることだろう。