1999年1月、トヨタがF1に参戦するというニュースは発表された。 そしてそれから3年、ついに2002年にF1デビューを迎えた。トヨタはF1で、長期的目標として"コンストラクターズとドライバーの両方でタイトル獲得"を掲げている。資金、時間、行動力、そして世界をリードする技術力など、企業としての複合的な力が要求されるF1への大いなる挑戦は始まったばかりだ。
トヨタはエンジンやシャシーなど、全て自社開発の道を選択した。そして厳しいF1の世界で最高の結果を出すために、F1に莫大な資金を投資する決断も下した。シャシーは99年からデザインが練られ、同じくV10エンジンもトヨタ独自に開発されたものだ。
2001年3月23日、遂に南フランスのポール・リカール・サーキット(トヨタチームのホーム・サーキット)で初のF1マシンを発表した。発表後は、2人のドライバー(ミカ・サロとアラン・マクニッシュ)により、2001年を通して広範囲に渡りテスト・プログラムをこなしてきた。マシン開発のためテスト・プログラムを行っていくと同時に、チームの結束を高めていく作業も必要だった。トヨタのテストはホーム・サーキットだけでなく、世界中11ものサーキットを回り、充実したテスト・プログラムをこなしてきた。
2002年、満を持してトヨタはモータースポーツの頂点、F1のグリッドに並んだ。エンジンを提供する他の企業をライバルに見据え、F1初シーズンに臨んできたのだ。世界に知られるトヨタのカンバン方式などの成功をもとに、F1への挑戦を始めた。トヨタは少しでも速く走るために全力を注いできている。
アラン・マクニッシュとミカ・サロは、チームが成長していくなかで、大きな使命を背負っていかなければならなかった。当初はトラブルが多発してしまうなど、初シーズンはチーム・コンストラクターズで、残念ながら2ポイント獲得の総合10位だった。2002年のシーズンが終わる前に、トヨタはマクニッシュとサロ両ドライバーに代わり、フランス人ドライバーのオリビエ・パニスと2002年にCARTチャンピオンになっているクリスチアーノ・ダ・マッタを起用することを発表した。
パニスの経験は、チームにそしてダ・マッタに新たな情熱の息吹をもたらした。2003年のトヨタは16ポイントをあげてコンストラクターズ8位の成績を残した。ドライバーズ・ラインナップは2004年も継続する。そして、テクニカル・ディレクターとしてルノーからマイク・ガスコインを招き入れた。
トヨタにとって2004年は、上位チームの仲間入りをするための、ステップの年になるはずだった。2003年12月にはルノーからマイク・ガスコインを引き抜き、デクニカル・ディレクターに起用。彼の手がけたTF104は、満を持して投入されたが、あいにくこれが不発に終わり、16ポイントを獲得した2003年を下回る9ポイントを獲得するに留まった。さらに、ドライバー交代や首脳陣の変更などが相次いだことも、十分なパフォーマンスを発揮し切れなかった要因と考えられている。
2005年、長期契約を交わしたラルフ・シューマッハとヤルノ・トゥルーリがチームに加入し、これまでチームを支えてきたベテランドライバーのオリビエ・パニスは現役を引退、サードドライバー兼テストドライバーを引き受けることになった。TF105は開幕から力を発揮し、チームは正しい方向に大きく前進。トゥルーリが開幕5戦で3度の表彰台を獲得し、チームメイトのラルフもシーズン終盤で2度の表彰台を手にした。その結果、2005年のトヨタは合計88ポイントを重ねて、コンストラクターズ・ランキングでチームベストの4位につけた。
シーズン後半で入賞するまで、開幕から8戦で得点のチャンスを逃したヤルノ・トゥルーリにとって、2006年は困惑するシーズンとなった。一方のラルフ・シューマッハは全体的により一貫性のある走りを見せ、オーストラリアGPでは表彰台に上っている。日本GP予選では見事なパフォーマンスで3番手と4番手を獲得したものの、レースではピットストップを終えたトゥルーリのペースが上がらず、後ろにいたラルフを抑える形となってしまった。トヨタは前年度よりも順位をひとつ落とし、5位でチャンピオンシップを終えている。
チーム代表兼会長、冨田務氏のリーダーシップの下で、山科忠氏が副会長、ジョン・ハウエットが社長を務めるなど、見た目には大きな変動はない。トゥルーリと新たに3年間の契約を交わす一方、ラルフはチームとの契約最終年を迎える。また、テストドライバーにフランク・モンタニーを起用、表彰台常連、そして初優勝を目指すチームの開発に貢献していく。